2025年8月6日の平和記念式典で、石破総理大臣が「太き骨は先生ならむ•••」の歌を詠みました。
この歌を初めて知った人も多く、「心を揺さぶられた」「涙が溢れる」という声が続出しました。
「太き骨は先生ならむ•••」の歌の意味や背景、引用元や作者の正田篠枝さんについてまとめました。
「太き骨は先生ならむ」歌の意味は?
「太き骨は先生ならむ•••」の歌は広島に原爆が落とされた日の光景を詠んだもので、原爆犠牲者の無念さを表現しています。
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
先生と思われる太い骨の周りに、生徒と思われる小さい頭の骨が集まっていたのでしょう。
当時、小学校3年生以上の子ども達は疎開中。
幼い小学校1・2年生の子達は、地元に残り学校に通っていました。
「小さきあたまの骨」はその年代ではないかと推測されます。
男性は徴兵されたり疎開の引率をしていたため、先生の多くは女性でした。
太き骨は女性の先生だったのでしょうか•••。
「太き骨は先生ならむ」歌の引用元は?
「太き骨は先生ならむ•••」の歌の引用元は、「さんげ」という歌集です。
正田篠枝さんが戦後に詠んだ歌100首を収録しています。
「さんげ」は主に2つの意味があります。
①懺悔(さんげ)
過去の罪や過ちを告白し、悔い改めること。
②散華(さんげ)
花をまいて仏に供養すること。
「さんげ」は戦後、GHQ (連合国軍総司令部)の検閲を受けずに極秘出版されました。
(米国批判や原爆の報道・出版は厳しく規制されており、逮捕や死刑は免れない状況)
危険を顧みず、この悲劇を伝えようとしたのです。
正田篠枝さんの熱意に負け、広島刑務所が極秘で印刷を引き受けました。
「さんげ」はどこで読める?
「さんげ」は平和記念資料館の情報資料室にコピーが置いてあり、自由に読むことができるようです。
「さんげ」は極秘で少数出版し知人に配布されたものなので、行方知れずでした。
近年になって、2冊発見したという情報を見つけました。
慰霊碑に刻まれている
「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の台座に、「太き骨の先生ならむ•••」の歌が刻まれています。
建立日 | 1971(昭和46)年8月4日 |
ブロンズ像について | ぐったりした教え子を抱え、自らも被曝した女性教師が、悲嘆にくれ空を見上げている様子 |
作者 | 彫刻家 芥川 永(あくたがわ ひさし) |
建立の決意 | ・原爆により生命を奪われた子どもと教師を慰める ・平和教育推し進める |
場所 | 平和記念公園(広島市中区)の西南 平和大通りの緑地帯 慰霊碑の背面に刻印 |
毎年8月4日、この場所には広島市内の小学生や教職員が集まり、慰霊祭が行われています。
平和記念式典で詠まれた
2025年8月6日の平和記念式典で石破総理大臣がこの歌を二度繰り返して詠み、多くの人の心を揺さぶりました。
この歌が多くの人に伝わっただけでも価値のある挨拶だった。
あえて2回繰り返したところで、涙腺が崩壊した。
最後にこの歌を持ってきたところに、石破さん個人の思いが込められていると思う。
戦後80年という節目の平和記念式典で、この歌が多くの人に知れ渡りました。
「太き骨は先生ならむ」を詠んだ正田篠枝とは?
正田篠枝さんは、広島県出身の歌人です。
父の仕事を手伝いながら歌人を志し、結婚して子どももいました。
原爆投下の日は爆心地から1.5キロの距離にあった自宅で被曝し、その経験を歌にした歌集を遺しました。
正田篠枝さんのプロフィールです。
本名 | 正田シノエ(1910年〜1965年) |
職業 | 歌人から原爆歌人へ 平和活動家 |
代表作 | 「さんげ」(1947年) 「耳鳴り」(1962年) |
晩年 | 乳癌と白血病により満54歳で死去 |
癌が発覚した後も執筆活動を継続していた正田篠枝さん。
全身に転移し激痛に襲われても、病床で忘れてはならないことを書き留め続けました。
そんな魂のこもった正田篠枝さんの作品が多くの人に届きますように。